近代朝鮮の開拓者/企業家(7)朴琪淙(パク・キジョン)


 朴琪淙(1839~1907年)

 釜山で生まれ、少年時代から商人のもとで働きながら、商業と日本語を学ぶ。
 若くして開化思想に目覚めた彼は、商業や漁業で蓄積した財産を鉄道建設の夢実現のために投じた。

 

生涯を鉄道建設に/「大韓鉄道会社」を組織

 国の近代化のため鉄道を敷き、汽車を運行させねば――と考え、その実現のために人々が動き始めたのは、1890年代の中頃であった。

 当時、鉄道建設に深い関心をもち、努力した人々には朴琪淙、李載完など開化思想に目ざめた多くの民間人がいた。その世論におされて1900年、政府内に鉄道院が置かれ、初代総裁となったのは李容翊であった。

 そのうち、特に朴琪淙は、鉄道建設のために、その全生涯を捧げた、鉄道史上で忘れることのできない人物である。

 朴琪淙は1839年(憲宗5年)、釜山浦の貧しい家に生まれた。正規の学校教育を受けられず、少年の頃から釜山の少し北のトンレ(東莱)のパルサンゴ(八商賈=韓末、対馬の宗氏との私貿易を許されていた八人の指定商人)で働きながら商業と日本語を習った。

 機敏で勤勉な彼は、流ちょうな日本語を活用して独立し、日本人商人との仲買人となって金をもうけた。その金をもとに釜山の前面の漁場および金海郡一帯の大土地の所有者となり、年ごとに富を蓄積した。

 当時、政府は次第に増えていく日本との折衝のために、朴琪淙を日本語の通訳として採用した。

 江華条約(1876年2月26日)の後、初めて日本に修信使(金綺秀が正使、一行82人)を派遣する時、彼は通事として近代化した日本を視察し、学校教育および鉄道敷設の必要性を痛感した。

 彼の希望は、官界での出世よりも実業界にあったし、新教育の普及と鉄道にあった。まず、有志とはかって私財を出し、釜山に土地を買い、小・中学校である「開成学校」の設立に成功した。

 次に、洛東江流域の物資が集まる河口の港である下端浦と釜山を結ぶ約6キロメートルの鉄道敷設を目ざして、最初の鉄道会社である「釜下鉄道会社」を創立(1898年)し、敷設の許可を受けた。しかし、これは採算がとれる見込みがなく実現しなかった。

 その間、日本や米国、フランスは京釜、京仁、京義の各鉄道敷設権をめぐって李朝政府に圧力をかけていたが、朴琪淙は国の幹線鉄道は、民族会社が責任を負うべきだと有志と共に「大韓鉄道会社」を組織(1899年)し、京元線、京義線の敷設権を獲得したのである。ただし彼らには、あまりにも資金と技術が不足していた。1904年、日本は日露戦争を起こすや、作戦上の必要を口実に、暴力的に幹線鉄道建設を強行したのであった。(金哲央、朝鮮大学校講師)